Arceus
セキ様が懇意にしている『先生』のことは、セキ様に嫁入りした時から存じておりました。当時その御方と実際に会ったことはございませんでしたが、セキ様がその御方のお話をされる時「せんせがな、」と笑顔で話し始める無邪気な様子が印象的でしたので、セキ様にとって大切な恩師様でいらっしゃると理解してはおりました。
実際に『先生』とお会いしたのは、わたしの懐妊が分かりました数ヶ月後のこと。わたしは酷い悪阻に襲われておりました。しかし御爺様や両親は「男児が産まれる」「優秀な子が産まれる」と大喜びになられたので、これは母となるための試練だと耐えておりました。
ただ、セキ様は違いました。セキ様は「せんせに診てもらおう」とお話くださいました。何でもセキ様は、ご用事でコトブキムラに行かれるついでに、『先生』にわたしの容態をご相談してくださっていたようです。『先生』がおっしゃるには、悪阻があまりにも酷いと胎児も母体も危ないとのこと。それを聞いたセキ様は、診てもらった方がいいと、そうご提案してくださったのです。
正直わたしは自分のことよりも、セキ様がそのように考えてくださっていることに、思わず感動いたしました。セキ様はわたしと結ばれてから、ぼんやりと空を見つめることが増えておりました。その何処か寂しそうな、切なそうな様子でしたので、きっとこの婚姻はセキ様にとって望まぬものだと直感しました。──ええ、分かりますとも。わたしは幼い頃から、セキ様を見つめておりましたから。セキ様のことなら、見ていたら何だって。初夜の時でさえ、わたしはセキ様と向かい合って愛し合うことは許されませんでした。
セキ様はコンゴウ団の長でございます。常に団のことを思っているセキ様ならば、駆け落ちなどは元より選択肢には無かったことでしょう。そして、御爺様の孫であるわたしを嫁に貰い、体良く身を固められた。皆がそれに喜ぶのならば、自分の一番の幸福さえも無かったことにしてしまう。だからわたしは、セキ様に愛されているなど思ってもいなかったのです。
余所者に診させるなんて、と仰る御爺様達の反対を押し切ったセキ様に急かされるまま、わたしたちはアヤシシ様に乗ってコトブキムラへと向かいました。山のような大きな建物の一室の部屋に通されたわたしたちは、キネ様という方にお出迎え頂きました。セキ様が部屋を見渡し、キネ様が『先生』は仮眠室だとおっしゃいました。どうやらわたしたちの到着が早かったようで、夜間の診療後すぐにお休みになられたとか。それを聞くや否や、セキ様は「分かった」と短く答え、部屋から駆け出して行ってしまいました。その勝手知ったる様子に少しだけ呆然としていると、キネ様がわたしを椅子まで案内して「温かいものどうぞ」とお飲み物までくださいました。赤い半透明なお湯に首を傾げていると、ろーずひっぷてぃーという、妊婦に優しい飲み物だというお話を受け、世界にはそんなものがあるのかと大変驚きました。
それからどのくらい時間が経ったのでしょう。頂いた飲み物がほど良く身に染み渡って、キネ様がの診療の様子を見守りながら船を漕いでいた頃に、ばたばたとした足音がざわめき、セキ様が『先生』と戻られました。
セキ様が『先生』と敬意を込めてお呼びしているから、どんなお髭を蓄えた方なのだろうと思ったら、なんと、白衣を纏った妙齢の女性でした。そのしゃんとした佇まいに、わたしの眠気はテンガン山まで飛んでいってしまったのです。「はじめまして」とわたしの前に跪いて自己紹介をそこそこに、『先生』はわたしの容態を伺いました。わたしは出来る限り心当たりのあることを『先生』にお伝えになりましたのに、『先生』はそこからさらに可能性を広げていき、わたしが無意識に我慢していたことさえすらすらと当ててくださいました。さまざまな対策をお話してくださる中、わたしは悪阻が酷いと良い子が産まれるという話をすると『先生』は顔を顰め「そんな話、根拠は無いよ」とあっさり一蹴されてしまいました。
『先生』のお話によると、悪阻とは一種の病気だそう。最悪死に至ることもあるという『先生』のきっぱりとした物言いに、わたしは少し沈んでしまいました。そして改めて、子を宿すということは命懸けなのだと胸がいっぱいになりました。
ふと『先生』の後ろで静かに控えているセキ様を見上げると、セキ様はわたしを──見ていませんでした。わたしよりやや手前にいらっしゃる『先生』の、小さくなっている後ろ姿をじぃっと見下ろしていらっしゃいました。ちくり、とした違和感から目をそらすように、わたしはセキ様からすぐ目を離しました。セキ様はそんなわたしの様子に、全く気が付いてなかったようです。
それから『先生』は、先ほどキネ様に頂きましたろーずひっぷてぃーという紅茶をたくさん分けてくださいました。こちらは『先生』がご準備してくださったようで、「食欲が無い時でもこれだけは飲んで、お腹の子に栄養を届けるように」と、わたしの診療に合わせて、イチョウ商会からお取り寄せしてくださったらしいのです。
さらには、「また不安なことがあったら旦那に言って連れて来てもらうといい」「出歩くのが難しかったら往診に行くから」というお言葉にわたしには心強くて頭が上がりませんでした。
こんなに聡明で気配り上手な女性がいたら、周りの男衆からの注目も集めているだろう。女のわたしでさえ、憧れるのだから。
だから、セキ様の様子が気になってしまいました。
こっそりと見上げたセキ様は、笑っているのか泣きたいのか、どちらとも判別し難い表情をされていらっしゃいました。
この時に、セキ様と夫婦になってずっと抱えていたわたしの中の違和感が、ついに確信に変わりました。
どうしてセキ様は、背面からしかわたしを抱かないのか。
セキ様の視線の先。セキ様の心に居るひと。『先生』が立ち上がって、後ろのセキ様に振り返ります。
「可愛いお嫁さん泣かすんじゃないよ」
「……応」
セキ様のその空白には、どのような感情が込められているのか、セキ様のことなら何でもわかるわたしには、大変悲痛なものでした。
花かげの眞猫
write:2022/02/24
edit :2022/03/20
words by icca