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2021/10/03

 ネズと喧嘩してしまった。
 きっと他の人からしたら大したことの無いことかもしれないけど、わたしとネズにとっては大きな問題で。加えて、ネズからやめて欲しいことは何度も言われていたから、わたしがもう少し頑張れば良かったことなのだけど。
 でも、自分に甘いわたしは、どうしても頑張ることが難しかった。だからいつもネズが我慢していてくれてた。その積み重ねの結果、ネズが「もういいです」って言って部屋を出て行った時、ついに愛想を尽かされてしまったと直感した。
 変われないわたしが悪いんだ。ネズが愛想を尽かすのも突然だ。ぜんぶぜんぶ、わたしがわるい。
 ならせめて、これ以上迷惑が掛からないよう自分の荷物をまとめてしまおう。そう思ったら不思議と行動は早かった。
 クロゼットの奥に眠っていた、わたしがこの部屋に来た時も一緒だったトランクを引っ張り出す。そこに、初めて買ったお揃いのパジャマとか、選んでくれたワンピースとか、デートの時に好んで来てたサテンシャツとか。想い出を詰め込みながら、念願の同棲は短かったなぁと、ぼんやり思い返す。でも、結構同棲して相手の嫌なところを見つけて気持ちが冷める、ということもあるらしいから。らしい、というか、今のわたしたちが正しくそうなっているのだけど。もっと言うなら、そうしたのはわたしのせいであるわけで、もう言い訳とか縋るとか、余地なんて残されてない。
 それでもやっぱり、わたしはネズのことが好きで、離れがたくて思わず泣いてしまった。
『今までごめんなさい。ネズのめいわくになる前に出て行くね。』
 涙ぐみながら書き置きを残して玄関に立った時、タイミング悪くネズが帰ってくるもので。ネズはじとりとわたしを睨んだ。
「どこ行くんですか」
「っう、」
「は? なんで泣いて……何その荷物」
「っくぅ、ひぐ……っ」
 その見下ろしてくる威圧的な姿を見た瞬間に、怖くて、でも嬉しくて、感情が溢れ出てしまった。嗚咽が喉に引っかかって、上手く声が出せない。もう、もう、ネズの迷惑にならないって決めたのに。止めどなく流る涙を伸ばした袖で必死に拭う。
「こら、強くこすると肌が痛むよ」
 なんて優しく手を抑えるから、私はもっと泣き出してしまう。やさしくしないで。わたしのこともうきらいなら、きらいっていって。もうやだ。
「う、ヴゥーーーッ!」
「あー……とりあえず一回部屋に戻ってください。ここじゃあ落ち着いて話せやしねぇ」
 そうしてネズに促されるまま、わたしの一大決心は取られてしまった。わたしがまともに話せないことを良いことに、あれよあれよと部屋へ戻されて、気がつけば二人がけソファに座らされている。未だに泣きじゃくるわたしのために、ネズはあたたかいココアまで入れてくれた。そのわたし好みの温度にまた泣きそうになるのを堪えて、ちろっと口をつける。ほんのりあまくて安心するあたたかさに、心も落ち着いていく。
「まあ、おまえが何しようとしてたのかは、あの荷物とテーブルにあった書き置きから分かります」
 わたしが落ち着いたのを、隣に座って見計らっていたのだろう。先程まで肘を膝について遠目だったネズが、突然背中をソファの背もたれに預けるよう上半身を起こしながら口を開いた。
「何も出て行くことはないでしょう」
 優しさ半分、呆れ半分といった声に、少しだけ安心する。視線も、わたしを見下ろすようなものじゃなくて、かっちり合う同じ高さだ。
「だ、だって! ネズもういいですって、出て行っちゃったじゃん……!」
 あの冷たく刺さるような言葉がリフレインして、背筋が凍るような感覚が蘇る。あの時のネズは、本当に怖かった。
「あれは、その、……当たり散らしたくなかったんだよ」
 ネズは視線を下に逸らしながら、バツが悪そうにチョーカーのリングを弄る。
「でも、その怒りの発端は、っわたしでしょ? わたし、いつもネズを困らせてて、だからもう愛想尽かされたんだって思って……」
 わたしも視線を下げて、マグカップのココアを見つめた。茶色の甘い液体は、ひどい顔のわたしを映しながら静かに揺蕩っていた。
「自覚があるなら直して欲しいんですけど」
「な、直せたら直したいよぉ」
 罪悪感に胸がじんと痛んで、また涙ぐんでしまう。直し方があるのなら、わたしだって直したい。でも、直し方が分からないから直せなかった。それでしょっちゅう周りに迷惑かけて、大切な人を苛立たせてしまって。そんな自分が本当にイヤになる。
「……そう、だね。おまえのアレは、付き合う前からだし。今までそうして生きてきたんだから、今さら直せって言うのも無理な話ですよね」
「うぅッ」
 諦めのように話されて、痛む胸を抑えた。時として言葉は鋭利な刃物になる。ネズの言葉がグッサリ刺さって、心が悲鳴を上げているみたいだった。視界が滲んで、鼻がつんと痛む。
「たまに、ちょっと虫の居所が悪くて、イライラしちまう時があるかもしれねぇけど、」
 のし、と頭の上に何か乗って、それから髪の毛を巻き込みながらわしゃわしゃ撫でられた。おそるおそるネズの方へ目を向ければ、俯くわたしを覗き込むみたいにした柔らかい表情のネズがいて、わたしの大好きなパライバトルマリンのような瞳の中に、涙目のわたしをまっすぐ見つめている。
「でも、そんなことできみを嫌いになったりしないですよ。そういうところもひっくるめて、大切にするつもりでオーケー出したんだから」
「ぅん゛ッ」
 ネズはこういう時、いつも欲しい言葉をくれる。まるでわたしの心を読んだみたいに。こんなわたしでもネズなら受け入れてくれるって、何処かで安心しちゃう。だから怠けちゃうのだけど。

 持っていたマグカップのココアをぐっと飲み干す。空になった底を確認して、ソファ前のローテーブルに置いた。
「まあ、努力はちゃんとしやがれよ」
「うっ、!?」
 頭を撫でていてくれた手がするりと下に落ちて、首を強く掴まれた。そのままソファの背もたれに押さえつけられて、一瞬息が出来なかった。その拍子で目眩を感じて咄嗟に目を瞑る。
 次開いた時には、わたしの首を押さえるネズが見下ろしていた。蛍光灯の影になってどんな顔をしているのか分からなかったけど、爛々と光るような眼だけはよく見える。その猟奇的な眼差しに、わたしは背筋を凍らせた。そして同時に、歓喜にも満ちていた。
「いつか我慢効かなくなって、その身体にイヤと言うほど叩き込んで矯正させちまいますから。おまえ、無理やりされるのだーい好きですもんねぇ」
「ひえ、ぜんりょしましゅ……」
 この愛が無限とは限らないから、無限であるように祈りながら頑張るしかないのだけれど。少しだけ、ほんの興味本位だけど、我慢の効かなくなったネズが見てみたいと思ってしまうのは。きっともうそんな風に叩き込まれているから。
 願わくば、わたしの悪癖が少しだけマシになって、だけどネズの我慢が効かなくなって欲しいな、なんて。

 

write:2021/10/03

​edit  :2021/10/22

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