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​2020/04/30

※夢主の幼児退行、ネズの凌辱表現

​ 

「ネズくん、ネズくん、あさだよ」

 身体を揺さぶられる振動と、やけに幼っぽくてつたない声が耳を打つ音に、ゆるりと意識が浮かび上がる。白い海の中に漂っているおれを、無邪気そうな目が覗き込むように見下ろしていた。

「あ、おきた? えっと、きょうはしあいがあるって、きのうのネズくんがいってたよ」

 成人した女性とは思えないほどの、そのたどたどしいその言葉に、おれは起きたばかりの脳を必死に働かせる。……ああ、そうだ。今日はトーナメントリーグがあるんだっけな。ご丁寧にチャンピオンから直々に招待状までもらって。もうジムリーダーでも無いのに、物好きなやつです。

 のっそりと起きと上がるが、まだ完全に覚醒し切れず、座ったまま目が据わる。そんなおれを気にも留めず、彼女がおれの腕に絡みついて来た。

「ネズくん。ねえ、おはようのちゅー、ぅ。……ん、ふぁ」

 柔らかい感触に頬を吸いつかれたから、一度引き剥がして顎を引っ付かみ、間抜けな半開きの口に舌をねじ込んだ。角度を変えながら舌を絡み合わせてやれば、色香のある声が隙間から漏れる。先程までの子供のような雰囲気とは打って変わって、昨夜の記憶を揺さぶり欲情をそそらせた。彼女の酸素が切れる頃に解放してやれば、とろんと溶けた目に、また白い海の中へと引き摺り込まれそうになる。

「ぉ、はおぅ、ねひゅくん」

 カーテンの向こうでは雲一つない青空が広がっているだろう爽やかな時に、うっとりした表情で発せられるその挨拶は、ひどくアンバランスだった。

 平衡感覚と遠近感覚が無く、物の使い方も分からない彼女は、部屋の中でも動き回るだけでも危なっかしいのに、外に連れ出すなんてもってのほか。準備をするおれの視界の端で、常に留守番の彼女はやはり頬を膨らませた。

「わたしもネズくんのしあいみたい!」

「だめです」

「んぇえええ」

「こら、暴れない」

 何とかなだめて試合中は一緒に居ることが出来ないことを伝えれば、彼女はふくれっ面のまま小さく頷いてくれた。毎回とはいえ、なかなか骨が折れる。誤魔化すように良い子と頭を撫でてやれば、あっという間に機嫌が直った。
 出かける前に、彼女に確認する。すると彼女は元気よく復唱した。

「ネズくんがかえってくるまで、ドアをあけない、みない、きにしない!」

「そうです。良く出来ました」

「わははぁい」
 行ってきます、と触れるだけのキスをひとつして、彼女に見送られながら部屋を出た。

 

 あの平和な部屋から出れば、街は前チャンピオン・ダンデの恋人がもう何ヶ月も行方不明だという話がひっきりなしに聞こえてくる。ある日を境に足取りが掴めなくなり、スマホにも連絡つかないそうだ。ダンデだけでなく、恋人の両親も無事を祈ってずっと待っている。

 喧噪を右から左へ聞き流しながらスタジアムに行けば、入口前でマスコミに囲まれたダンデが質問に受け答えていた。方向音痴のくせに探し回っているからだろうか、少し憔悴しているように見える。リーグ委員会だけでなく、バトルタワーのオーナー業もこなしている身には、さすがに体力が追い付かないのだろう。その様子を遠くから眺めて、記者に絡まれたくないおれは遠回りして関係者口を目指した。

 控え室近くの自販機エリアで、ダンデと会った。おれの見立て通り、ダンデの目元には隈があって、かなり体力を消耗している様子だった。

「なあ、ネズ。彼女の行方を知らないか?」

 藁にも縋る気持ちなんだろう。しかし残念ながら、おれはダンデの恋人だという女性とは関わり無かった。だからダンデが欲しがっている言葉を掛けてやれない。

「知りませんね。そもそも関わり無かったんで」

「そう、だよな。すまない、試合前に変なことを聞いて」

「構いませんよ。……心中お察しします。早く見つかるといいですね」

「ああ、ありがとう……。無事でいてくれたら良いんだが……」

 ダンデは何も買わずにフラフラとその場を後にした。
 その悲劇のヒーローぶりには、思わずほくそ笑んでしまう。おれがその彼女を匿っているだなんて、微塵にも思っていないだろう。

 それもそうだ。おれと彼女は本当に関わりが無かった。無かったが、彼女がダンデの恋人であることは知っていた。おれがどんなに想いを寄せたって、振り向いてくれるはずがない。だから、おれは一方的な押し付けがましい感情を、彼女に無理やり強要させた。以来彼女とは蜜月の仲となったが、代わりに彼女の精神は異常をきたしてしまった様子。おかげで彼女は平衡感覚や遠近感覚を失っただけでなく、記憶のズレが生じてしまい、幼児退行の疾患も見られるようになった。

 こんな状態になってから、自身の両親はおろか、恋人だったダンデのことを話したことはない。きっともう憶えていないだろう。しかし、何かの拍子で思い出されるのも困るから、おれは半年前からロンド・ロゼの一室を借り、彼女が住んでいた家からそこへ隔離した。

 情報を得られないようテレビも使えなくした。連絡手段を断つためにスマホも取り上げ電源を切った。極力他者と関わらないよう食事はおれが持ち込んで、ベッドメイクも特別に自分たちでやらせてもらっている。

 おれしか人間を知らない彼女は、おれだけに心を開き、おれだけに従順だった。いつかの苦々しい経験を思い返せば、それがどんなに悦ばしいことか。

 安心してくださいダンデ。彼女は元気ですよ。ただ、今はおまえじゃなくておれしか見えてないですけど。きっとおれの帰りを今か今かと待ち焦がれていやがるでしょうから、負けたらおれはとっとと帰りますかね。悔しさを彼女に慰めてもらうんで。

 

write:2020/04/30

​edit  :2021/11/18

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