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​2020/04/22

※元ネタ:恋人のランジェ(ハチ)

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 優しい子守唄のような声がくぐもる白い空間に、古びた椅子がひとつ。その上には羊皮紙が置いてある。

 おれは手のひらを見下ろして、握って、開く。その小さな手のひらは、おそらくおれが10歳くらいの時のものだった。息苦しい黒い服を着て、片方の手にはペンを握っている。
 ふと視線を上げると、目の前には同い年くらいの女の子が立って居た。その子はマリィによく似ていて、たおやかな赤い花束を手に持ち、真っ黒なワンピースを着ている。
 おれが気がついたのを見計らって、彼女は椅子を指差しおれに言う。
「アタシは要らない」
 子どもらしかぬはっきりとした口調が、鋭く鼓膜を揺らす。すると、彼女の足元には猫のような何かが絡まっていて、思わず目を見開いた。それが、不吉なものだとすぐに感じ取れたから。
 おれはそれを彼女から振り払いたくて、何とかして彼女にその椅子を譲りたかった。おれたちは同じで、平等に権利が与えられていて、同じ分だけ可能性がある。彼女とならひとつになってもいいとも思っていた。
 けれど、彼女は首を縦には振らなかった。
「アナタといっしょには居られない」
 彼女の声が、おれの声とひとつになることを嫌がった。彼女はとても悲しげな顔をしていて、それは何処かで見たことがあるような気がした。けれど、記憶がぼやけていて、どうしてかよく思い出せない。とても懐かしくて、愛おしかったはず。
「いいよ、気にしないで。アタシのことはもう忘れて」
 忘れてはいけない人のような気がした。忘れたくなかったはずだ。しかし、おれは忘れてしまったから、もうどうしようも無かった。
 花束を握った逆の手が、おれの手を取る。子どもらしい真白くて小さいそれは、握り返したら壊れてしまいそうなほど繊細に感じられて。加えて、握り返さないと離れていってしまうような儚さも持ち合わせていた。
「本当は、寂しいんだけどね」
 静かに零した本音に、おれはなんて返したらいいか分からなかった。
 羊皮紙を除けた椅子に座るようおれを促した彼女は、握り返すことが出来なかったおれから手を放す。
 それから、持っていた花束を丁寧に解いて、器用に花かんむりを作った。その小さな手で赤い花々を編んだ花かんむりを、椅子に腰掛けたおれの頭に載せる。そして最後に、羊皮紙を持たされた。

 おれの前に跪いて祈る彼女のその仕草は、まるでおれへの祝福の儀式のようだった。
「椅子に座るアナタに、しあわせを」
 いつの間にか、くぐもって聞こえいた歌は鳴り止んでいた。
 おれを見上げて、泣きそうな顔で笑う彼女が、水彩画のように滲んでいく。
「またいつの日か、会える時まで、」

 そこで重い瞼が持ち上がって、見知った天井が見えた。手を持ち上げて、確認する。それは成人した男の、随分と骨ばったおれの手のひらだった。

 ──あれは、夢だった。
 気だるい身体を起こして、サイドテーブルに置いていたスマホを手に取る。アラームはとうの昔に鳴っていて、予定していた時間からすっかり昼近い時間だった。とはいえ、予定は問題無いので、のろのろと支度を始める。
 いつものように洗顔をして、いつも通りのメイクを施す。いつもと違うのは、滅多に着ない、好きでも無い喪服を着ていることくらいか。
 マリィも朝から出掛けて夕方まで戻らないと聞いているから、それまでには済まさないと。
 予約した花屋は当たり前に開いていた。希望通りの赤い花だけで構成してもらった花束を受け取って、真昼の町外れを迷うことなく進む。おれ以外は誰も居なかった。
 月に一度、産まれた頃から通い慣れた道だった。今はもうおれ一人しか訪れない石の前に立つ。産まれた日も死んだ日も同じ日付。それは、おれの産まれた日付でもあった。
 当時の幼いおれは、その意味に気づくまで、何故毎月ここに通うのか、何故誕生日にもここに来なければならないのか理解が出来なかった。
 おれは墓石の前に跪いて、赤い花束を丁寧に解き、花かんむりを作り始めた。細い指先が器用に編み込んでいく。幼いマリィによく作っていたから手馴れたものだ。出来上がったそれを、リースのように十字架にかける。
 もし共に産まれていたら、なんて妄想は数えきれないほどした。今でもするくらいだから、もう癖と言っても過言ではないのかもしれない。それほどまで、存在しているのに存在していない曖昧な時間だったあの窮屈な10ヶ月を、同じ母胎の中で過ごした彼女にいつも想い馳せた。
 平野に流れる風はとても穏やかで、何故か無風だったはずの夢の中を思い出す。
 夢の中で彼女の声を聞いていたはずなのに、もう思い出せなかった。もしかしたら音声ではなく字幕だったのかもしれない。そう考えると、たった一言でもいいから、彼女の声を聞いてみたかったと思った。そんなこと、叶うことなんて永遠にないのに。
 そうして、いつも思い出すことがある。来世で結ばれることを願って心中した男女は、双子になるらしい。
 しかし、結局のところ、ふたりとも無事に産まれてくるとは限らないのだ。おれと彼女のように。放してはいけない手を放してしまったから、もう二度と一緒にはなれない。
 だから、おれは忘れてしまったのかもしれない。あるいは、彼女が願ったから忘れてしまったのかもしれない。

 覚えているのは、あのくぐもって聞こえいた子守唄。母が腹の中に居たおれたちのために歌っていたものだった。

 世界は 一つだけ
 君が言う。 「一つだけ」
 「あなたとは居られない」
 「さようなら」 さようなら

 それは紛れも無く、二人の歌だった。

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Rangge Poppel

write:2020/02/22

​edit  :2021/12/04

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