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​2020/04/09

※浮気された夢主と浮気したネズ

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 傍から見れば仲睦まじいカップル。陰から見つめるわたしからしたら、彼氏の浮気現場。

 その光景を見た瞬間、わたしの中ですべての辻褄が合って、すべて納得いった。感情が氷点下を下回るような感覚に陥る。そして、冷めたわたしがわたしに言う。「浮気される方が悪いんだよ」と。そしたらもう、ネズのことを、何とも想えなくなっていた。

 ネズは、わたしとじゃなくても夜は眠れるし、わたしの作るご飯が特別好きでもないし、わたしじゃないおんなのこでも普通に抱ける。

 誠実な人だと、思っていたのに。いや、わたしのせいで誠実には居られなかったのかもしれない。もっと早く思い出すべきだった。彼は人気のシンガーソングライターだったことを。わたしの代わりなど、たくさんいることを。

 絶望の中で、思考はとても冷静だった。同棲している部屋に帰って来たわたしが一番最初にやったことは、わたしの私物をすべて捨てること。

 一緒に選んだワンピース。 お気に入りだったクッション。誕生日プレゼントでもらったネックレス。必要最低限のものがトランクひとつに収まるまで、すべて捨てた。もう、何の意味も持たないものたちだったから。

 その中で、唯一のお揃いのペアマグカップ。同棲する時、一番最初に買い揃えたもの。今朝もコーヒーを一緒に飲んだほど愛用している。わたしにとってかけがえのない大切な時間だった。あれも偽りだったと想うと叩き割りたくなる。

 それを何とか抑えて、わたしのマグカップにある花を生けた。アネモネ。わたしの好きな花だ。ネズに話したことがある。色鮮やかな見た目に反した「見捨てられた」という花言葉のことも。覚えているかは分からないけど、聞いてくれていたのかも分からないけど、もうわたしのことなんて何とも想っていないかもしれないけど、今のわたしに出来る最後の意趣返し。

 真昼間の陽光がわたしの後ろで光射した。わたしたちだけだったはずのせかいを、過ごして来た想い出たちを、惨めな恋を冷たく照らされて、アネモネが翳る。

 見捨てられたわたしは、見捨てたネズのために涙なんて一滴も零れなかった。
「おしあわせに」
 そうしてわたしは、重いトランクを持って部屋を出た。




 良くないことをしている自覚はあった。それでも、一度だけでも良いからと泣き縋られた腕を振り解くことは出来なかった。妹がもう一人増えたようで、放っておくことが出来ず、そうしてずるずると関係を築いて、見事に絆されていた。

 そんなことをひた隠して部屋に帰ると、笑顔の彼女が部屋を暖かくして、得意料理も準備して迎えてくれた。何も知らない優しさに、後ろめたさで目を背きたくなる。それと同時に、いつも笑顔の彼女に安心してしまう。

 普段から、怒る顔を見たことが無かった。泣く顔も、事情の際の生理的なものしか知らない。だから、もっと感情を引き出してみたかった。違う表情を暴いてみたかった。

 彼女のことを、もっと知りたかっただけ。おれは、何処で間違えたんだんですかね。

 その日に限って、彼女を見かけたような気がした。全身の血が凍るような錯覚に血の気が引いて、全身が硬直する。動かないおれを気遣う声が隣から聞こえて、ようやく我に返った。一度瞬くと、彼女の姿は見当たらなかった。一瞬だったから、他人の空似だったのかもしれない。おれの善良が見せた幻影だったのかもしれない。

 今思えば、そう都合良く解釈する自分が、本当に狡猾で嫌らしい人間で反吐が出る。きっと彼女も、そうだったんだろう。

 早朝まで付き合わされてやっと帰って来た部屋は、異様に暗く、そして冷たかった。まとわりつく嫌な予感に身体が震える。なるべく足音を立てずに歩き、部屋の電気を静かに入れた。無機質な蛍光灯に照らされるダイニングテーブルと、その上に置かれた真っ赤な花を生けたマグカップ。

 それが何を意味するか、すぐ解ってしまった。咄嗟に辺りを見渡せば、何処も彼処も彼女の痕跡が無い。

 お気に入りの観葉植物。可愛らしいルームシューズ。愛用のエプロン。彼女なんて居なかったように、すべてが無くなっていた。

 もちろん彼女の姿も見当たらない。慌てて電話を掛けてみたが、通話中なのか掛からなかった。メッセージを入れたが、なかなか既読にならない。早朝なのも構わず知り合いに聞くも、皆『知らない』ばかり。

 こんなこと、思い当たる節なんて、ひとつしかない。

 違うんです。本意ではありません。向こうから擦り寄って来て困ってたんです。好きなのはおまえだけです。

 言い訳がましい言葉が頭に過ぎる。こんな一度の誤ちだけで、こうもあっさり捨てられるなんて考えもしなかった。

 あの朝の時間はなんだったのか。花瓶にしてしまえるほどつまらないものだったのか。おまえなら笑って「大変だったね」と許してくれただろう。おまえは何処にも行かないと、思っていたのに。おれにどんなことがあっても、おれがどんなに駄目なやつでも、おまえだけはおれを見捨てることはないと、信じていたのに。

 彼女の優しさばかりに甘えた自分の思考が、厭らしくて仕方が無い。本当に駄目な人間で、嗤いが込み上げてくる。堪えきれず嗚咽を漏らすと、反動でいつの間にかため込んでいた涙が零れ落ち、真っ赤な花弁を濡らした。

 そんな惨めなおれの影の下で「ざまあみろ」と、アネモネの彼女が笑ったような気がした。

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サレカノ ラレカレ

write:2020/04/09

​edit  :2022/01/05

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