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2020/02/12

※夢主が記憶喪失

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 今どき、バナナの皮が道端に落ちているだなんて有り得ない。さらには、それを踏んだことによって身体が後ろに90度回転しちゃって、石畳に後頭部をぶつけて意識を失って、次目覚めたら記憶喪失だなんて。そんな馬鹿みたいな話が、実際に起きてしまったから笑えない。その時のわたしは、きっとどうかしていたんだと思う。でなければ、器用に人の顔と名前だけ落としてしまうことなんて無かったはずだから。

 脳の基本的な動作に以上が無いことが分かり、検査入院から自宅療養に切り替わってから数日。今日は担当医がいるナックルシティ病院に検査のため通院する日だった。幸い通常の記憶力があることが実証されているので、あとはただ憶えていくことが今のわたしの課題。

 検査後、昼過ぎの人気が少ない穏やかな病院の庭の隅にある古ぼけた二人がけベンチを陣取って、ぼーっと思い返す。担当医が指差す写真。両親、友人たち、好きだった俳優とか、著名人。それと──

「こんにちは」

 白と黒の長い髪、白地にピンクが映えるライダージャケット。あくジムのユニフォームに青白い肌、猫背の痩身。彫りが深い顔と、仄暗い翡翠の瞳。

「……え、っと。ネズ、さん。こんにちは」

 わたしの恋人だという人。未だに顔を見合わせることに照れてしまって、少しだけ視線を逸らす。

「さん、はいらねぇですよ」

「す、すみません。まだちょっとこそばゆくて……」

「まあ、今後外せるように努力しやがってください」

 少しため息をつきながらそう言ったネズさんは、わたしの隣を指差した。ああ座りたいんだ、とわたしは少し横にずれれば、ネズさんは「どうも」と隣に座った。なんかちょっと、距離が近い気がする。

 わたしにとっては、病院に運んでくれた命の恩人だから、抱えている感情は彼のそれと少し違う。でも、わたしの家や連絡先を知っていたり、好物の傾向を分かっていたりしていたから、多分恋人ってのは間違いは無さそう。

 だけど、両親も友人もわたしに恋人が居たことを知らなかった。聞けば、彼は売れっ子アーティストで、結構人気があるらしい。みんな、有名人だから伏せてたのかもね、と口を揃えて言ってくれたから、なるほどな、とわたしも納得した。

「その、今日はどのようなご用件で……?」

「……恋人の様子見に来ましたが」

「あ……すみません」

 そういえば、今日は通院する日だと伝えていたっけ。何とか愛想笑いを浮かべて彼に向ってそう聞けば、彼は睨むような鋭い眼光を返して来る。この質問は野暮だったなぁ、なんて他人事みたいに思って、わたしはしょぼくれた顔を庭先に向けた。

 でも正直、わたしには他人事なのだ。申し訳ないが、わたしはネズさんを愛した記憶がひとつも無い。ネズさんも、わたしとの想い出を語ってくれることも無い。だから、彼の恋人だという実感がまるで感じられない。きっと、見た目は自分が愛していた恋人だから、とりあえず一緒に居るようなもの。

「……………」

「……………」

 ああ、沈黙が痛い。ネズさんは多弁では無いし、わたしも喋ることがあまり得意では無い。両親や友人なら気にならないのに、恋人という概念で縛られているネズさんとの時間は苦痛でしかなかった。

 『今のわたし』が目を覚まして「どちら様ですか?」と声掛けた時、ネズさんのあの絶望のどん底に落とされたような真っ青な顔が、ずっと脳裏にこびりついて忘れられない。きっと『今のわたし』では、恋人としてネズさんを幸せにすることは出来ないだろう。どんなに見た目は変わらなくても、『今のわたし』はどう足掻いてもネズさんの愛する『前のわたし』には成れないのだから。過去には戻れない『今のわたし』は、もうネズさんのことを諦めた。けれど、ネズさんは違うみたいで、いつまでもわたしのことを気にかけてくれる。その優しさが何よりも痛かった。

「……昼ですけど、飯は取りましたか」

 沈黙を破ったのは、意外にもネズさんだった。声につられて顔を見ると、ネズさんはあの仄暗い瞳でずっとわたしを見据えていて、少し身がすくむ。

「食べ、ました」

 咄嗟に嘘をついた。これ以上一緒に居たくなかったから。ただえさえ有名人と緒に居れば噂にもなるし、何より『今のわたし』はネズさんと一緒に居られる資格が無い。

 だってそうでしょ? ネズさんが求めているのは『前のわたし』であって『今のわたし』じゃない。

「なら、おれの昼食に付き合ってください」

「……はい?」

 なのに、ネズさんはわたしを逃がしてはくれなかった。

「飲み物くらい奢れる甲斐性はありますよ。イアの実のエードが美味いと評判の店を教えてもらいました。イアの実好きでしょう? 初めて行きますけど、この病院の近くらしいのですぐ分かると思いますよ」

 わたしの退路を断つかのように、捲し立てるネズさん。何故かゾワリと悪寒が背中を伝った。わたしの方に身を乗り出す勢いを落ち着かせようと、わたしの両手が拒絶するように胸元まで上がる。

「いやですから、わた「頼むからッ!」

 突然のシャウトに、戦慄が走る。ネズさんはアーティストだから、その声は本当によく通る。鼓膜がビリビリ震えて、少しだけ目が眩んだ。けれどネズさんは、わたしの様子を気にするどころか、自分が大声を出したことにも気づかないで、わたしの両手に自分の両手を絡ませて、力無く項垂れる。

「……頼むから、もうおれから逃げないで」

 その追い縋る悲痛な声に、『今のわたし』は振りほどくことも、声をかけることも、何も出来なかった。ただ、『前のわたし』の罪に、想いを馳せるばかりだった。

write:2020/02/12

​edit  :2022/01/20

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