top of page

​2020/02/02

※元ネタ:老倉そだち(終物語)

​ 

 彼女はおれを嫌っている。

「うっわネズ……最悪……」

 どれくらい嫌いなのかと言うと、それはそれは、もう気が遠くなるくらいに嫌いなのだと言う。おれは直接聞いたことは無いが。

「帰りましょう」

 彼女はへそを曲げると、いつも9番道路の海辺に向かう。波の音を聴いていると『落ち着く』らしい。おれも波の音には癒されますよ、なんて言うと噛み付かれるから言ったことは無い。

「……嫌。あんたとだなんて、絶対に」

 ただ、『落ち着く』のは、おれが居ない時に限る。いつもならマリィに任せているんだが、生憎今日はジムリーダーの招集で居ない。まだジムリーダーになりたてのあの子を、おれの都合で休ませるなど論外だ。

「そろそろ暗くなります、帰りましょう」

「やだ」

 だから、おれが迎えに来た。

「帰りましょう」

「……ッ!」

 そう言って不用心に近づくと、彼女の目つきが鋭くなる。目付きが悪いことを気にしている様子は、おれ的には可愛らしいと思うけど。

「ち、近づかないでよッ!」

 つんと冷えた空気をさらに研いだようで、寒さが強まったように感じる。彼女は顔を歪ませながら、おれを睨んでいた。その顔からは、おれに対する怒りと恐れが伝わって来る。どうやら波の音で『落ち着く』状態からはかけ離れてしまったようだ。

「いや! 来ないで! ネズなんて嫌い!」

 彼女の荒げた声が、おれを容赦無く突き刺す。彼女との関係が険悪になってから罵詈雑言が続いているが、これになれる気配はまったく無い。けれど、そうしなければ彼女の声を聴く機会も無くなってしまうから、張り裂けそうな心を何とか繕って受け入れる。

 おれの真っ直ぐな視線から逃れるように、彼女は彼女は悲観するように両手で顔を覆った。

「もう……ッ! もう、なんでわたしに構うのよ……。その優しさも気遣いも……ッ、あんたの仕草のひとつひとつを思い出すだけで、っわたしはぁ……、泣きたい気持ちになるのよ……」

 語尾になるにつれ声が震えていくその訴えは、一周回っておれのこと好きなのではと自惚れてしまいそうになる。愛憎は紙一重と言うからね。きっと彼女はおれを愛するがゆえに、おれのことを憎んでいると言える。

 おれを憎んでいるとは言え、彼女を放っておくことなんてしない。おれが生きている限り、彼女はずっとおれのことを気に食わない様子だけど、こんな寒空の下にひとり置いて行くことははばかられた。

「分かりましたから、もう帰りましょう」

 宥めようにも言葉が見つからない。こういう時に女性を落ち着かせる言葉を憶えておけばよかったと思う。けれど、彼女には逆効果な気もして、憶えてなくてよかったかもしれない。

 寒さからなのか、怒りからなのか、彼女は肩を震わせていた。きっと寒さからの震えだと、おれの都合の良いように解釈してその肩に触れようとすれば、瞬間に彼女が顔をあげ、おれの手が強く叩き落とされる。

「ッ! 気安く触らないでよ!」

 鼓膜を劈くような乾いた音が響いて、それからおれの右手の甲が痛んだ。彼女と触れ合えた箇所は、いつも痛みが走る。

 それでも、おれは辞めることをしなかった。だってそれは、おれと彼女が生きている証拠でもあるから。

 ふと彼女の赤い頬が気になった。寒さからなのか、怒りからなのか、はたまた照れからなのか。そのあたたかそうな赤さが、灰がかったこの9番道路に色を差す。

 また肩に手を伸ばせば、また叩き落とされるだろう。そこでおれは、肩に触れようとするフリをして、叩き落とされる前に彼女の右頬を刹那的に指先でなぞる。その赤さからは想像もつかないほど冷たくて、おれの指の方が温かいことが感じ取れた。

「ひゃっ?!」

 加えて、面白い反応に思わず目が見開く。罵詈雑言ではない彼女の言葉を聴くのは久々だ。彼女もおれの手の温かさに驚いたのか、咄嗟におれから、おれの指から距離を置いた。後ろにさがった影響で海水が足元にかかっているけど、そんなことは気にせずただおれを見て、さっきまでの頬以上に顔を真っ赤に染めて、触れられた頬を痛そうに両手で抑えている。

「な、なにッ……?! どうしてほっぺつんって、つついてくれてんの?! そ、そんな茶目っ気が発揮できるような間柄じゃないでしょわたしたち?!」

 険悪ですけど一応幼なじみなら、それくらいの茶目っ気があっても良いとは思いますがね。おれはともかく、マリィには許しているのでしょうけど。

「まあ、不意打ちは悪タイプの得意技ですからね」

 そうひねくれたことを言ってやると、彼女は丸くいていた目をキッと鋭くした。まったく可愛げの無いやつ。

「知ってるわよ! というか、そんなこと聞いてないッ!」

 噛みつかれたものの、それを最後に彼女はその憎まれ口をようやく閉じてくれた。

「帰りましょう」

 もう一押しだと思い、彼女に手を差し伸べる。叩き落とされないだけマシになったが、彼女は両手で右頬を守りながら、顔を歪ませておれの差し出した手を見つめるだけで動かない。いつまでも差し伸べた手を掴んでくれないことに痺れを切らしたおれは、頬の外側を守っていた左手を掴んだ。その氷のような冷たい体温に、ここに長く居続けていたことが分かって、少しだけ悲しくなる。波の音を聴きに来たのも、きっとおれに怒っているからだろう。それでも、おれに烈火のごとく怒るおまえが好きで、おれのせいで激情に駆られるおまえが可愛くて、おれを憎むほど感情の矛先を向けてくれるおまえが嬉しかった。

 そう、彼女は典型的な天邪鬼で、おれへの嫌悪は愛の告白と同様なのだ。

 おれを嫌っている間は、おれだけを見てくれている。それに分かったからこそ、おれは彼女の罵詈雑言を受け入れられるようになった。

 彼女の左手を優しく引いて、抱き寄せる。斥力のように嫌がられると思っていたけど、彼女はおれの引力に逆らわなかった。未だ右頬を抑えながら、無抵抗に抱きとめられる。服の上からでも分かるくらいに、彼女のすべてが冷えていて、その冷たさが咎めてくるように鋭くて、おれの体温を容赦なく奪っていく。

「も、やだッ……やめてってば! ……やさしく、っしないでよぉ」

 ついに、彼女は泣き出してしまった。泣いて欲しかった訳では無いんだが、泣かせる原因がおれであることに、おれは彼女の髪の毛に埋もれて幸福を噛み締めた。

 差し伸べた手を何度叩き落とされようとも、おれはしつこく彼女に手を伸ばす。それが、痛みばかり伴ったとしても、彼女の自尊心に擦り傷を作る行為だとしても。だってそれが、おれと彼女の愛し合い方だから。

「……やさしいネズなんて、だいきらい」

「、……それでいいよ」

 おれは、おれのことを心底嫌う彼女を愛していく。

​ 

write:2020/02/02

​edit  :2022/01/19

bottom of page