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​2020/12/23

※モブ女目線、誰も報われない

 

 シンガーのネズが、この病院に通っていることは知っていた。ただし、患者ではなく、お見舞いで。日付や時間は特に決まっていないらしく、連日来る時もあれば、一週間以上来ない日もあるらしい。家族か知り合いか、下っ端のわたしには誰が入院しているのか聞かされていない。担当の一人である御局様は口が堅い人だから、担当以外には誰にも話してくれないのだ。

​ 確かに有名人のプライベートを探るのは良くないことだけど、でも一ファンとして、好きな人のことは何でも知りたいと思ってしまう。親に勧められて取得した看護職だけど、初めてこの仕事をしていて良かったと実感した。もしかしたら、ネズがあたしに気付いてくれるかもしれない。その時のあたしはそんなシンデレラなストーリーを、少女みたいに夢見ていた。

「面会、お願いします」

「あっ、はー、ぃ」

 特徴的な髪、パンクロックな服装。どんなに顔をマスクで覆い隠していても、ファンなら一目で分かる。隠しきれない彼のカリスマが後光のように見え、気怠げそうな隈の濃い目元に少しだけドキリとした。

「こ、ちらに、記帳願いま、す」

 少しもたつきながらもペンと共に面会名簿を差し出せば、ネズは慣れた手つきで書き記していく。今日の日付、現在時刻、面会する人の名前と番号、自分の名前。続柄に『婚約者』と迷いなく書かれた瞬間、あたしの身体中の血液が一気に凍るような感覚に陥った。

 ──こいびと、いたんだ。

 そのあとの記憶が朧気だ。ちゃんと名簿を受け取って、面会バッジを渡せたのかすら記憶にない。公表していない恋人、それってつまりは本気ということ。ファンとして幸せになって欲しい気持ちと、女として嫉妬にのたうち回りたい気持ちに頭が混乱して、応対した業務も酷い有様。ファンであることを公表していたから、周のスタッフは「ついに知ってしまったか……」と察してくれて、同情気味に見逃してくれたのが幸いだった。

 それでも、あたしの長年募らせた想いに深く深くついた傷は簡単には癒えてくれない。早くて一週間、遅くて三年。もしかしたら一生抱えていくかもしれない。それほどまでに、突然のショックは結構重かった。

 これから、何を糧にして生きていこう……。

 定時後の更衣室で魂が抜けているような絶望状態だったから、おそらく気配に気が付かれなかったのだろう。ふと御局様と同じ、ネズの恋人がいる病室担当の先輩が話をしているのを、たまたま聞いてしまった。

 噂だと、ネズの恋人は自殺未遂らしいということ。九番道路の、あの凍える海に沈んでいて、何とか発見されて引き上げてもらい一命を取り留めたものの、半年以上経っても意識が戻らないと言う。

 他人の不幸を漠然と喜んでしまうほど、あたしは人として落ちぶれていることを気付かされた。あたしの好きな人が、大切な人を放って置くことなんてありえないのに。こんな最低な人を愛してくれることなんてないのに。あたしが、シンデレラであるはずが、絶対あるわけないのに。

​ ネズは、あの静かな白い病室で、物言えぬ恋人に何を話すのだろう。考えてみて、想像すらつかなかった。ネズのことは好きだけど、結局はシンガーの一面しかあたしは知らない。あたしは、ネズのことを、なにも知らないのだ。

 そんな当たり前なことをむざむざと思い知らされて、最低なあたしは、ネズの恋人が今も生きていることをつよく憾んだ。死ぬならさ、ネズを手放してから、心を解放してからにしてよ。無駄に生き残って、あたしの大切な人を巻き込まないでよ。

 ──あーあ、ほんと、最低だ。

  

write:2020/12/23

​edit  :2021/02/06

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