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​2020/10/14

※ほんのりと死ネタ​

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みんなみんな、忘れていく。彼女が長年愛用していたマグカップ。彼女の絶対的な指定席だったデザイナーズチェア。彼女のこだわりだった硝子の花瓶。彼女の宝物が詰め込まれたクッキーの空き缶。彼女の一番お気に入りだったドレスワンピース。色鮮やかだったものたちが、まるで花が枯れていくように、水分が抜かれ茶色く煤けた。目に見えるものがどんどん色褪せるように、記憶の中の彼女もセピア色に変わっていく。あんなに脳裏に焼き付けていたはずなのに、彼女のシルクのように艶やかだった髪色も、瞬くたびに煌めいた目の色も、温もりがとろけた肌の色も、全てが色を失っていた。気付けば、彼女のまろやかな声も、彼女の清らかな香りさえも、憶えていなかった。さながら、手に掬った水が、指の隙間からすり落ちていくよう。“切ない”と表現するにはあまりにも無痛性で、さらに困惑する。あんなにも、恋しくてたまらなく想っていたのに、喪失感すら無かった。そうしていたら、彼女の顔の造形まで分からなくなって来る。彼女はどんな顔をしていて、どんな風に笑って、どんな風に泣いていただろうか。写真が一枚でもあればきっと取り戻せるのに、被写体を嫌った彼女は、自身の姿を決して残してくれなかった。おれの手元に残ったものといったら、茶色く煤けた彼女の私物と、顔の無いセピア色の人影、そして、行き場を亡くして棒立ちし続けるおれの想い。──愛する人を喪った世界には、どんな色の花が咲くだろう。

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シナプスが繋がらない

write:2020/10/14

​edit  :2021/02/10

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