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​2020/07/20

音もなく降る雨に『しとしと』だなんて効果音をつけたのは、一体全体誰なのか。おかげで部屋の主が不在の狭いワンルームは陰気になり、留守を任されたおれは雨が気になって眠れない。「ごめん。今日の仕事、朝までコースなんだ。明日の朝には帰るから!」と、最近買ったお気に入りだというワンピースを翻し、昼前とは思えないくらいに重い色の雲の下を、彼女は元気良く出て行った。その時はまだ、雨は降っていなかったというのに。適当にテレビを見ていればいつの間にか夜になり、何もやることのないおれは仕方なく部屋を暗くして、寝てていいと言われていた彼女のベットに横になり目を閉じた。しかし、睡魔が全くやって来ない。寝ることに意識をしていても、どんなに寝返りを打って体制を変えても、脳は醒めきっていてちっとも眠れやしなかった。いつも二人でベットに寝転がっては、狭いだとか、もっとそっちいけだとか、楽しそうに文句を言う彼女が居ないだけで、シーツの海の上は異様に広く感じる。本当は仕事ではなくて、他の男と会っていたら──なんて彼女を疑ってしまった。一人でいあると、どうしてもそういう発想になる。そんな自分が嫌だった。悪循環に閉じ込められ、永遠と渦巻くように気を揉んで貴重な睡眠時間を無駄に過ごした頃、外が仄青く明るくなっていることに気付く。無意識にスマホを手に取れば、時刻は彼女の仕事終わり時間である5時を過ぎていた。彼女からの終業定期連絡が入っていることを確認したおれはベットから起き、簡単に身支度をして長傘を手に取り彼女の家を急いで出た。外はおれの耳に届いていた通り『しとしと』と雨が降っている。駅までの道中をどんな風に歩いていたのかは、実は覚えていない。彼女が列車に乗った連絡が来た時には、もう最寄駅には着いていた。始発が動き始めたばかりの駅は平日といえど閑散としていて、駅内の壁に寄りかかって待ちぼうけているおれはひどく浮いている。メッセージでやり取りする彼女は、トイレ休憩等細かい休憩はあっただろうが、昼から翌朝までぶっ通しで仕事をしていたというのに、お腹が空いただの、深夜2時から5時までの時間が光速のように早く感じただの、朝早い列車なのに意外と人が乗っているだの、おれが思った以上に元気そうで安心した。彼女とたわいないやり取りを繰り返しているだけで、あっという間に彼女が乗っている列車が駅に着く。疎らな人の中から彼女を見つけることは容易かった。彼女もおれの存在に気付き、改札を抜けた瞬間に駆け足で近づいてくる。その足取りはしっかりしているものの、昨日見送ったワンピースは疲れているように少しだけくたびれているように揺れた。「お迎えありがとう」と嬉しそうな声も、こころなしか疲れを感じさせるように鼓膜に響く。「結構待ったよね? ごめんね」とおれを気遣い謝る言葉に「おれが好きで待ってただけですよ」と返してやれば、彼女は「そ、っか。……にへへ」とはにかんだ。「ねえ! どこかで何か食べてから帰ろうよ。わたしもうお腹減っちゃって今すぐ何か食べたい気分なんだ」と言うから「今の時間帯、開いてるところなんてファストフードくらいじゃねーですか? 疲れた体には毒だと思いますけど」と問えば「いいじゃん。わたしパンケーキ食べたい!」とのたまったから、おれからはもう何も言うまい。どんな時でも食い意地が張っているところを見ていると、何だか妹のモルペコを彷彿させられる。「あ、今マリィちゃんのモルペコみたいだって思ったでしょ」「まさか」「そういう顔してたよ」「……目敏いね」ああ、いけない。緩んだ顔が出ていた。思わず片手で口元を覆い隠すけれど、時すでに遅し。膨れる頬はフワンテを想起させられて、笑うのを必死に堪えた。「もう! でも今はモルペコでもなんでもいいよ。早くいこ」手を牽かれて、駅の外へとつられて歩き出す。せっかく長傘を持って来たのだから、その下に案内してやろうと思っていたのに、彼女は自分の鞄から折りたたみ傘を──物にこだわりの強い彼女らしい、趣味の悪い絵柄の──を既に取り出して広げていた。誘うタイミングを失ったおれはすっかり諦めて、彼女と同じように傘を広げる。雨はまだ飽きずに『しとしと』音を立てて世界とおれたちを包み込んでいた。

write:2020/07/20

​edit  :2020/07/31

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