top of page

​2020/03/30

※ネズ→夢主→誰か

​ ​

 彼女はただ、静かにそこに立って居た。彼女にとって、人生最大の不幸とも言える出来事を目の前にしたというのに。彼女は涙を見せることはなく、同時に喚きも嘆きもしなかった。ただ、温度を感じない冷めた目をして、真っ青な顔をして。暗く俯き、石に刻まれた、かつての恋人の名を無感動に見下ろして居た。

 おれはただ、彼女のその姿を隣に立ちながら横目で見ていた。気の毒に思い、他愛無く想い、こちらに向いて欲しいと念い。邪魔者が居なくなった喜びを噛み締めながら。彼女の悲しみに上手く寄り添えるように、複雑そうな表情を浮かべながら。今こうして彼女の隣に立てることに優越感を抱きながら。彼女の無様で可哀想な姿をいつでも支えられるよう、隣で見て居た。

「……ネズ」 彼女は俯きながら呟いた。「あたし、これからどうしよう」その声は、漠然とした不安に怯えているように聞こえた。「どうやって、生きていけばいいのかな」おれの喪服の裾を控えめに掴む手が震えている。

「おれが居ます」すぐさまそう答え、墓標のあいつに見せつけるように彼女の肩を抱き寄せる。彼女はようやくおれを見上げた。「おれが傍に居ます」視界の端に見えた彼女の目は、今にも零れ落ちそうなくらいに涙が張っている。それは、生者の証。「だから、大丈夫」死者には拭えまい。「おれの前では泣いたっていいんですよ」その後悔している恋を、おれは肯定して慰める。

 上手く泣けない彼女の、不憫で惨めな嗚咽ひとつひとつにやさしく相槌をすることで、彼女がおれに救いを求めてくれることを、おれは解っていた。

 こうしておれは、ひどく合理的な手段で、彼女を手の内に堕天させることに成功しました。

​ 

write:2020/03/30

​edit  :2021/06/16

bottom of page