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​2020/03/28

※odaibakoに投げられたリクエスト

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小さな酒場のこぢんまりとしたステージ。とりどりの楽器を持った年老いた演奏家たちの真ん中に立つ若い女性。歌い上げる曲は、四分の三拍子の軽快かつ優美な円舞曲。少し高めのビブラートが酒場中に響き渡る。誰もが彼女の歌声に耳を傾けていた。先ほどまで、毎週土曜だけステージに立つ彼女が実際に歌手として生計を立てているわけではないことや、ここのオーナーの娘で自由に歌わせてもらっているということを話していた隣の席の客たちも、その目も耳も、心さえ彼女に囚われている。──もちろん、おれも同じだ。シンガーソングライターとしてではなく、ジムリーダーとしてでもなく、ただ彼女のファンの一人として、ただ彼女に恋い焦がれている男の一人として。ステージから一番離れた席で、彼女の声が一番響く席で、蠢く有象無象を導く天使のような彼女が一番輝く席で、今日も彼女の歌声と酒に酔っていた。彼女の、歌う先の眼は、一体何を見ているのだろう。誰を、見ているのだろう。歌詞に込められた想いに嫉妬している自分が馬鹿馬鹿しくて、頭を振りながらさらに酒を呷る。だがしかし、その思考はどす黒く渦巻いて、粘つきながら心臓に絡み付く。誰もが惚れ惚れとする歌声を持っているというのに、彼女は決して表舞台には出なかった。そういうことが得意な人は他にも居る。上には上がいるもの。たとえば、おれとか。そう、蹴りやがった。思い出す度につくづく思う。才能のある人間の無自覚は、才能のない人間には辛辣だ。彼女は知らないだけなんだろう。その歌に、救われる人が居ることを。その声に、期待する人が居ることを。その眼差しに、失望する人が居ることを。彼女は何も解っていないんだ。「ネズくん、もうお店閉まるよ。大丈夫?」いつの間にかテーブルに突っ伏していたおれを、あの声が揺さぶる。我に返って上半身を起こせば、周囲は寂しそうに暗くなっていて、離れたところにあるカウンターの照明だけがおれたちを照らしていた。おれだけが声を掛けられたことに、舞い飛びそうな嬉しさとわずかな申し訳なさが入り混じる。「すみません、すぐに帰りま、」立ち上がろうとしたものの、足が思うように動かず、もつれてまた席に着いてしまった。意識が宙に浮いているような感覚に、いつも以上に飲み過ぎたのだ、と心の中で頭を抱えた。彼女を前にすると、どうも上手く振る舞えない。「心配だなぁ。家まで送ろうか? 肩くらい貸すよ」大丈夫です自力で帰れます、とおれが反論する前に、彼女は自分の肩におれの腕を回して、腰を支えながらおれを立ち上がらせた。「歩ける?」答えたって、歩かせるつもりだろうから何も言わない。酔っ払いの歩幅に合わせているつもりの彼女に合わせてゆっくりと外に出れば、冷たい風が身体を撫でてくれて、かなり火照っていることを教えてくれた。「今日も来てくれてありがとう」少し酒が抜けて来た時、彼女がおれに話しかける。「まあ、ボイストレーニングとかしてないし、歌手のネズくんからしたらちょっと聞き苦しいところがあったかもしれないけど」そんなことない、と言っても彼女はどうせお世辞として受け取るから、おれがその話題について何か返事をすることはもうしなかった。彼女は知ろうとしない。おれが毎日どんな気持ちで彼女の歌を聴いているのか。おれがどんな目で彼女を見ているのか。彼女は何も解っていないんだ。「ほら、お家着いたよ」一瞬飛びかけた意識が戻って来る。言われるがまま家の鍵を取り出して鍵穴に差し込もうとしたが、視界の焦点と手の空間感覚が一致しなくておぼつかない。見かねた彼女の手に包まれてやっと解錠出来た家は暗く静まり返っていて、人が居る気配を感じさせなかった。「マリィちゃん居ないね」そんな小さな声から背筋にわずかな電撃が走り、嫌な予感を感じ取る。玄関の鍵を静かに施錠する音が、おれの鼓膜にはやけに大きく響いた。彼女は慣れた足取りでおれの部屋まで進み、おれをベッドに放り投げる。雑な扱いに呆れながらも、ようやく彼女から解放されて、おれは深く息をついた。彼女に触れていたところがまだ熱くて気持ち悪い。「ネズくん、お水」もう起きる気にならなくて、眠ってしまいたかった。もう全部酒のせいにして、このどす黒い何かを忘れてしまいたくて、彼女を無視して寝てしまいたかった。また会う時に「今日は飲み過ぎないでね」って笑ってくれたら、きっと諦められる。何もない健全だった関係に、おれは戻りたかった。それなのに、彼女はおれに覆い被さって口を塞いできた。次いで注ぎ込まれる冷えた水流に一瞬溺れるような感覚に眩み、反射的に身体中の筋肉が萎縮して神経に悪寒が駆け巡る。驚いているおれをよそに、彼女は止まる様子は全くなくて、ただ嚥下して受け止めるしかなかった。水を飲み干して離れるかと思ったのに、彼女は生ぬるい唾液を流し込んで来るようになって、まるで劣情を弄ぶようにおれの上顎を舌でなぞる。下腹部が熱帯びて窮屈に感じて来た頃に、おれを押さえつけていた唇が離れた。外のネオンに照らされる濡れた唇が、厭らしく弧を描く。「ねえネズくん、今日もいい?」どうせ答えなくても勝手に始めるくせに。ここまで煽っておいて了承を訊ねる律儀なところが本当にずるい。おれが許すことを完全に解られている。味を占められてしまった。でも、それでもいいと思っているおれが居るから、もうどうでも良かった。彼女は何も解っていない。おれが抱いている感情も、見つめる眼差しの温度も、その心臓に食らいつきたい衝動も、誰も触れられない場所に閉じ込めてしまいたい独占欲も。おれが何も言わないから、彼女は気付いても何も解っていないように甘遇する。「……、」どうぞ、と言う前に、ベルトに手を掛けられた。彼女の無自覚はおれには辛辣だ、とつくづく想う。

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write:2020/03/28

​edit  :2021/06/16

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