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​2020/01/22

 今日は我がナックルシティジムのジムリーダー・キバナと、スパイクタウンジムの元ジムリーダー・ネズのエキシビションバトルの日だ。ジムチャレンジの元トップツーのバトルだからか、チケットは数秒で完売し、当日も満員御礼。想像以上の観客に、ジムトレーナーだけでなく普段学芸員であるスタッフも総出で対応している。もちろん、普段は受付スタッフであるわたしも。

「──おはようございます」

「ぅわっ」

 スポンサーの物販確認に駆り出され、倉庫で個数確認をしていたわたしの背後で響いた声。驚いて振り向くと、白と黒の特徴的な長い髪に、白いジャケット、あくジムのユニフォーム。猫背で気怠そうな顔をした、スパイクタウンの元ジムリーダーであり、若者に人気のシンガーソングライター。

「あ、ネズさん。おはようございます」

 本日の主役のひとりだった。ふとバインダーを抱えた左腕に巻いた腕時計で時間を確認する。開始まで十分に余裕はあった。

「早いですね、まだ2時間ありますよ。何か用事で、も……」

 どうして、ここに居るんだろう。関係者用の出入り口も、控え室も、こことは反対方向。そもそもここは倉庫で、主賓様がいらっしゃる場所じゃない。ジジ、と防犯カメラの機械音が聞こえたような気がして、背筋が凍るような感覚がした。

「わあああ!? ネズさん!? ここジム関係者以外立ち入り禁止なんですよ!?」

 ついさっきまで数えていた物品も個数も忘れて、わたしはバインダーを小脇に挟んでネズさんを倉庫から押し出そうとする。ネズさんは慌てるわたしをよそに、自身の身体を押しているわたしの手を、自分の両手で包んだ。骨張った固い感触と、少しだけ冷たい体温。わたしは突然のことに手を凝視し、それからネズさんの顔を見上げた。わたしよりも少し高い位置にあるアイスグリーンの双眸に、わたしの間抜けな顔が映っている。

「は、え? ネズ、さん?」

「──好きです」

「え、?」

「付き合ってください」

「……はい?」

 何も理解が出来ないわたしは、ただ目を白黒させることしか出来なかった。しかもこの時、わたしはあまりにも唐突な出来事に、先日キバナ様が面白がってポケッターに上げていた、口をポカンと上げたヌメラと壮大な宇宙の背景を合成した『スペース・ヌメラ』の画像が脳裏を過った。

 ……って、ちがう! 現実逃避してる場合じゃない!

「ちょ、ちょっと待ってくださいッ!?」

「待ちません」

「えっ即答……」

 我に返って、一旦ネズさんとの距離を取ろうとしたけれど、手を取られていることで十分な距離を取ることが出来なかった。むしろ、包んでいたはずの手を放すまいと、先ほどよりも強く握られる。見た目はわたしよりも細い指と華奢な腕に、こんなに力があるなんて。硬い感触が印象的な手のひらも相まって、男の人だと意識させられる。思わず、胸がキュンとときめいた。

「おれは、十分待ちましたよ」

 そう言い切るネズさんの瞳は、真っ直ぐわたしを見据えていて、わたしはもう気恥ずかしくて視線を泳がせてしまっていた。見つめ返すなんて無理だ。キバナ様で比較的イケメン慣れしているけれど、ネズさんはまた違う系統のイケメンだと思っている。それに、コアで熱狂的まではいかないけれど、わたしはシンガーソングライターとしてのネズさんのファンなのだ。紡がれる音楽が好きなだけだけど、そういう意味での“好きな人”に間近で見詰められるのは、正直もう耐え切れなくて穴に入って埋まりたいと考えてしまうほど。

 ああ、それよりも、会話を進めないと。ネズさんがわたしを待った? はて、どういうことだろう。

「ま、待たせた憶えなんて、ありませんけど……」

 混乱している頭で、必死に記憶を掘り返せど、わたしとネズさんの接点なんてたかが知れている。他ジムリーダーとジムスタッフが関わることなんてまず無い。

 わたしの困惑顔に、ネズさんの眉がひくりと上がる。それから軽くため息をついて、静かに呟いた。

「……何度も、食事に誘っていたんですが」

 その言葉に、記憶がふつふつと浮き上がって来る。

 そういえばいつだったか、好きな食べ物を聞かれた憶えがある。でも好き嫌いのないわたしは「何でも食べますよ」なんて笑顔で可愛げのない返答をした。きっとわたしの素っ頓狂な発言にそうとう頭を悩ませただろうネズさんは、しばらくした後にスウィーツビュッフェに誘ってくれたっけ。でもわたしの予定が仕事で埋まっててお断りしたんだ。それから、シュートシティに新しく出来て話題になった、わたしの故郷でもあるイッシュ地方の家庭料理が食べられるお店に誘われたな。でもわたしは既に同郷の友人と行くことを決めていたから、それもお断りしたっけ。

「まさか、そこまで意識されてなかったとはね」

 その次は、次は、次は、……あれ、思えばよく誘ってもらっていた気がする。なんで誘われていたんだろう。ネズさんが付き合いのない女の子と遊ぶことなんて聞いたことがないから、そういう目的ではないことは分かるけど。ネズさんと話したことなんて、キバナ様に話を通す時くらいしかなかったような。

「きみのサザンドラ、結構強かったですよ」

 ……あ、ダイマックス事件。解放されてたナックルシティスタジアムから観客たちを避難させて、スタッフ含む無事も確認した後に、ジムトレーナーや戦えるスタッフがキバナ様たちの応戦に行ったんだ。わたしが指示されて向かったのは、奇しくもネズさんのところ。わたしの長年の相棒のサザンドラとネズさんのタチフサグマで咄嗟に連携取って、強制的にダイマックスさせられて暴れまわるオノノクスを抑え切った。その後わたしや他スタッフでオノノクスの救護にあたって、ネズさんは新チャンピオンたちと一緒に、他のジムでも起きているダイマックス事件を収めに行ってしまった。

 たった一度切りの、予行演習とか何もしないで、無意識での行動だったから、わたしの中ではもう終わったことになっていたようだ。今後関わることはない、と思ってすっかり記憶の奥底へと追いやってしまっていたみたい。

 予定のこともあったけど、わたしにとっては天上人のような存在だから、あの時のお礼だとしても有名人と食事は正直気が引けていたこともあった。なんたって、相手はあの哀愁のネズ。わたしはただジムスタッフとして出来る限りのことをしたまでだと、お世辞として受け取っていた。

「あ……いやぁその、何かのお世辞とかご冗談とかだと思ってて、」

「おれがそんなつまらない冗談を言うとでも?」

「ヒエッ、すみません滅相もございません」

 ネズさんが急に声を低く出すものだから、たまらず萎縮して平謝りする。場の空気も冷え込んだのか、肌寒く感じた。気難しそうなネズさんのことだから、誰彼構わず食事に誘うことなんてしないはず。だけどもう、ネズさんのストレート過ぎる告白に、何故誘っていたかなんて、察しの悪いわたしでも分かる。

 本当に思いもよらない出来事に震えるわたしを見たネズさんは何を思ったのか、またひとつ溜め息をついた。

「今日のバトルに勝ったら、おれと付き合ってくれませんか」

「え、と。エキシビションだから勝ち負けは無いんじゃ、」

「……………」

「すみませんすみません分かりました」

 その有無を言わせない無言の圧力に、逃げ場を失ったわたしは了承しか残されていなかった。何度も縦に首を振るわたしを確認して満足したのか、ネズさんはようやくわたしの手を解放してくれた。周りの空気がひんやりと冷たく感じられるくらいに、わたしの手のひらは手汗に塗れていて、それが何だか恥ずかしくて背中に回しながらユニフォームの裾で拭う。そんなわたしの心も透かしているのか、一連の動作を眺めていたネズさんが、口角を少し上げたような気がする。余計恥ずかしくて視線を下に向けた時だった。ネズさんがわたしの肩を掴んで、ネズさんの方に寄せられる。何故か、抗えない。

「かくご、しとけよ」

「、……っ!?」

 耳元で囁かれたテノールと、熱い吐息。いつもイヤホンで聴いていた声が、わたしに向けられて放たれたことに心臓が激しく脈を打つ。顔が燃えるように熱くて、きっと真っ赤になっていることだろう。さらには喉も熱くなって思うように声が出なかった。コイキングのように口をパクパクさせることしか出来ないわたしは大変滑稽だろう。囁いてすぐ離れたネズさんは、いつの間にか背を向けていて倉庫の出入り口に差し掛かっていた。

「──さて、キバナをぶっ飛ばしに行きますか」

 肩に手を置いて、軽く息を吐くようなその声は、普段と変わりない気怠さがあった。けれど、ドアの向こうへと去っていく時に、蛍光灯で照らされた耳が、分かりやすく真っ赤に染まっているのを見てしまった。いつもは不健康そうな白さなのに。赤い意味が分からないほど、わたしは子供ではなく、さすがに自覚せざるを得ないことを悟り、足腰から力が抜けてその場にへたり込んだ。その拍子で小脇に挟んでいたバインダーが滑り落ち、乾いた音を小刻みに響かせながらわたしの前に表向きで落ちて来た。その細かいリストに自分の本来の仕事をやっと思い出したけど、しばらくここから動けそうにもなかった。……あろうことか、腰が、抜けてしまった。

 ああ、今日のエキシビション。どうか引き分けでありますように。心の整理がつかないから勝って欲しくない。反面、好きな人が負ける姿はあんまり見たくない。引き分けなら、すべてが安定して収まる。どうか、どうか、引き分けで。でないと、この心臓がもちそうに無い。

 

write:2020/01/22

​edit  :2021/09/14

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