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​2019/12/21

※夢主が既婚者
 ​

 旦那に殴られたというその顔は、痛々しくて惨いものだった。

 彼女はむかし、スパイクタウンに住んでいたご近所さんだ。テレビドラマや小説によく居るだろう『近所のお姉さん』みたいなポジションで、近くに歳近い子供が居なかったおれと妹のマリィの遊び相手になってくれていた。十以上離れていたけれど、おれたち兄妹は一緒に遊んでくれお姉さんってだけでよく懐いていた。そんな年端もいかない頃から、おれは彼女に仄かな想いを抱いている。

 しかし、おれがジムチャレンジ出来る年頃に、彼女の母親が再婚するからとシュートシティに引っ越してしまった。それにまだ物心が着かないマリィが、大好きなお姉さんが突然居なくなってしまった事実を受け止めきれなくて、数日間泣き続けた。おれはマリィを宥めるのに必死で、彼女が遠くに行ってしまったことに寂しいとも悲しいとも感じられなかった。仕方の無いことなんだ。今は寂しいけど、また会える時は来るから。そうマリィに言い聞かせた。自分にも言い聞かせているようだった。

「お継父さんが社長室長でね、今後のコネクションのためにって議員の息子さんのところに嫁がされたの。いわば政略結婚ってやつ。今時古いわよね」

 家に招き入れて丁寧に手当てした彼女は、落ち着いた大人の女性らしい顔立ちをしている。しかし、身の上をなんてことないように笑いながら話すその顔には、昔の天真爛漫な面影が少し残っているような気がした。何気なく視線を落とした先の、彼女の左手。そこには、金持ちの息子にしては質素なシルバーリングが巻き付いている。

 彼女が結婚したことは知っていた。二年くらい前にそんな旨の手紙をもらったから。リーグ委員会が用意しなきゃ宿泊も叶わないロンド・ロゼでの結婚式なんて、スパイクタウンに住んでいる田舎者が行けるようなところじゃない。しかも、そこにはおれを嫌っているだろうお偉いさんが集まっているとなったら、招待されても行く気にはならなかっただろう。そんなおれの事情を汲んでか、事後でもこうして手紙で知らせてくれることは有り難かった。

 

「おねいちゃん、きれいやなぁ……」

 

 マリィが手紙と一緒に添付されていた、おそらく彼女のウェディングドレスの写真を食い入るように見ていたっけ。そういうことに憧れる年頃の女の子だからか、キラキラした目で眺めていた。しかしながら、おれは一度もその写真を見たことはない。「元気だよ」くらいの意図しか汲み取れない内容の手紙を流し読みしただけだった。

 写真の彼女は幸せそうに笑っていただろうか。旦那という奴はどういう顔をしているんだろうか。気になりはしたものの、結局見ることは無かった。その時の手紙と写真は今も、背後にあるチェストの最上段の奥で眠っている。

 彼女が幸せなら、本当に誰でも良かった。おれでは決して彼女を幸せにすることが出来ないと分かっていたから。出来るとしたら、一緒に地獄を見てやることくらいだろう。だから、遠い街でおれの知らない誰かと幸せな家庭を築いてくれたら、何でも良かった。

 初恋は実らない、とは誰が言っていたのだろう。正直実らなくて安心した。おれの幼い恋心がドス黒い“何か”に変わる前に、崖に落とせた。彼女が幸せを感じているならそれが良いんだと、崖下に言ってやった。

 

「ごめんね、突然来て。お母さんには頼れなくってさ。でも、ずっと家に引きこもっていたから、友人っていえる人もいないし。ネズくんたちがまだここに住んでいてくれて安心したよ」

 彼女は旦那の愚痴をひとつも漏らしてくれなかった。「わたしが悪いの」と言うだけで、頑なに話さない。でも、こうしておれの元に来てくれたということは、きっと堪えられないほどのことがあったからだろう。着の身着のまま、スマホだけ持って逃げてきた場所が、おれ。少なからず頼りにされていることには、素直に嬉しいと想ってしまう。

「生憎ですが、マリィは今ジムチャレンジで各地を回っているんですよ」

「そっか、マリィちゃんもそんなに大きくなったんだね。わたしも老けるわけだ」

「……今も十分、若く見えますよ」

「やだぁネズくん、お世辞が過ぎるよぉ」

 お世辞ではなくて、本心から感じたことなんですけど。そう言っても彼女は信じてくれそうにもないので、それ以上は口を噤んだ。

 フィルター贔屓でも、やはり、彼女は綺麗だと思う。結婚式の時ならば、さらに美しく着飾っていただろう。はじめて、あの写真を見ていないことに後悔した。

「ネズくんも大きくなったよね。今はジムリーダーとシンガーソングライターの兼任だっけ? すごいねぇ! 昔からポケモンに詳しかったし、歌も上手だったもんね。納得納得!」

「そんなこと、ねぇですよ」

「謙遜しなーい。褒められたらまずお礼!」

「……ありがとうございます」

「よしよし、いい子だね」

 おれが二十を超えたなら、彼女は三十を超えている計算になる。歳の差が気にならないというわけではないが、長年の空白を考えると少しだけ居心地が悪く感じられた。そんなおれを余所に、昔と同じように頭をわしゃわしゃと利き腕の右手で撫でて来たから、未だにガキ扱いかと落胆して、変わらない彼女の愛情表現が少し照れくさかった。

「やめてください」

「ふふ、ごめん。つい、ね。そうだよね、ネズくんはもう子供じゃないもんね」

 無造作に撫でて来た右腕を掴んで、頭から引き離す。彼女の腕は、女性らしくきめ細かく柔らかい皮膚で覆われていて、思わずドキリとした。別に、女性の肌に触れる経験が無いわけでもないのに、まるで童貞のような自身の反応に内心苦笑した。それもそうか、相手は初恋の女性なのだから。しかし、ずっと初心なおれでは居られない。なんたって、目の前に好きな女が傷付いておれのところに来てくれたんだ。交わる視線に合わせて、身体の距離を縮ませていく。

「ネズくん、」

 ゆったりと名を呼ばれた。それは、線引きをするようにも、甘えたそうにも、どちらにも聴こえた。仕方なく一旦止まって、彼女の言葉の続きを待つ。

「わたし、そろそろ帰るね」

 ……なるほど、彼女はまだ戻れる心境にあるようだ。視線を下に逸らして、左手の薬指にある銀色を見つめている。あなたに暴力を振るった男なんかに、まだ未練なんてあるんですか。おい、こっち見ろよ。

「おとなしく帰すと思いますか?」

 彼女の腕を掴んだまま、空いている反対の手で彼女の肩を押してやれば、いとも簡単に彼女をソファに押し倒すことが出来た。これには彼女もさすがに驚いたようで、初めて表情を変えた。

「ネ、ズくん。ダメだよ」

「ダメって言っておいて、抵抗しないのもどうかと思うよ」

 この体勢から抜け出そうと身をよじらない時点で、彼女が拒否しないことは明白だった。そもそも、家に来た時点でおれは期待していた。おれを頼って来てくれたことに、おれがもう成人した男性ってことを分かっている彼女に、期待しないわけが無かった。

 肩をソファに押し付けていた手を、彼女の腫れた頬に添えて、唇を寄せる。彼女は無意識か否か、薄く口を開いてくれた。

「っン、ぅ」

 キスを許されたことが嬉しくて、おれは舌をねじ込み咥内を蹂躙する。上顎を舌先でなぞれば、彼女の身体は楽しそうにビクビク震えて、おれもそれが面白くて角度を変えながら何度もなぞってやった。右腕を掴んでいた手はいつの間にか指を絡まり、強く握り合う。

 その間も視界にチラチラ光る銀色が煩わしくて、一度顔を上げて彼女の左手から片手でそれを抜き取ろうとした。

「──っダメ!」

 強めに放たれた制止の声に、思わず止まる。

「ダメ、戻れなくなっちゃう」

 あなたが傷付くような場所なんかに戻らなくていい。ずっとここに居て欲しい。もう離れないで欲しい。ずっと傍に居て欲しい。好きです。愛しています。

 ──すべてかなぐり捨ててでも言えたなら、あなたはここに留まってくれるでしょうか。結局言えないおれは、臆病者でしょうか。

「……すみません」

「わたしこそ、ごめんね」

 損な役回りでも、彼女のためなら何でも出来るような気がする。それで彼女の心の拠り所となって、幸せを感じてくれるなら、犯罪でもやってみせる想いがあった。

 だからもう、この行為は止められない。おれは迷いなく、彼女の服に手を忍ばせた。

 崖から、あのドス黒い“何か”が這い上がってくるのを、心のどこかで感じ取る。ああ、もしかしたら、それは今のおれなのかもしれない。

 だから、腫れた顔をさらに紅潮させて、服も髪も乱れた酷い有様なのに、楽しそうに悦ぶ彼女を見た時。彼女の旦那という顔も知らぬ人間に、彼女が求めている男がおれである優越感と、彼女を縛る憎いそいつに殺意を覚えていることに、笑みがこぼれた。

 さあ、一緒に地獄を楽しみましょうよ。

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write:2019/12/21

​edit  :2021/08/24

 

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