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​2019/12/09

彼女のすべてが欲しかった。思考も、双眸も、両手も、感嘆の声も、ひとつ残らず。「ひゃー! 握手しちゃったよ! すごいねキバナさん! ファンサにめちゃくちゃ応えてくれた! やさしくてドキドキしちゃった! あと近くで見ると顔小さいし脚長っ! 前世でどんだけ徳を積んだんですかね!」「……そうですか」おれの向かいに座って、少し前にあった出来事を興奮気味に語る彼女が憎たらしい。これでも不器用なりに押して引いての駆け引きをこなして、先日ようやく食事に誘えたというのに。ナックルシティにある老舗のカフェに行ってみたいと言うから、日にちを合わせて駅で待ち合わせた。他の人からみれば、それはまさしくデートだ。足が地につかない様子を悟られないよう真顔で装っていたのもつかの間、途中でキバナに会ってしまった。他人とあまり馴れ合わないおれが、妹やジム関係者以外と歩いているのが珍しかったのだろう、最悪なことに向こうから声を掛けてきやがった。ニヤついたキバナの「恋人か?」なんて問いにドキリとしたが、彼女は何も気にすることなく「友達ですよぉ」と返していて、複雑な気持ちになったのは言うまでも無い。こちらは一度も友達だと想ったことはねぇんですけど。……と言えたら、この関係ももっと進んでいたかもしれない。ミーハーな彼女はおれの気持ちなんて露知らず、持っていたキバナのリーグカードにサインしてもらったり、写真を撮ってもらったりしていた。最後には握手もしてやがって。おれでさえ握ったことねぇのに! キバナの野郎、憐れんだ目でおれを見やがって。トーナメントの時憶えていやがれよ。「ネズくん? どうかした?」「……別に、何も」何より、ガキみたいにふてくされる自分に一番腹が立っていた。意気地なしにも程がある。しかし、今の関係を崩したくない想いが強すぎて、いつも一歩を踏み出せないでいた。おれだけを見ていて欲しい。そう素直に言えたら、きみはおれだけを見てくれますかね。そのキラキラした瞳を、他に向けることなく。「オムライスご注文のお客様」「あ、はい!」そんなつまらないことを考えているうちに、彼女がご所望していたものが運ばれて来た。このカフェ自慢の逸品らしい。「わぁい! おいしそう!」鳥ポケモンの歌声よりパンが良いとはこのことなんだろう。キバナで盛り上がっていた彼女はすぐに食事に目を奪われていた。「お先にいただきます」「はい、どうぞ」些細な気遣いなんて、誰にでもやっているだろうに。今のは他でもないおれに向けられたことに、少なからず心臓が高鳴った。律儀に手を合わせて食べ始めた彼女の食べっぷりはさながらホシガリスのようで、自然と食欲をそそられる。頬にデミグラスソースを付けてしまうお茶目感も嫌いじゃない。美味しそうに頬張る彼女を見ていたら、突然ひと口分を乗せたスプーンを差し出された。「ネズくん、はい」「……は?」「あーんだよ、あーん!」「えっと、」「早く! 落ちちゃう!」「あ、あー……ん」きっとオムライスが食べたいとか勘違いされたんだろう。彼女の剣幕に押されて、仕方なく差し出されたスプーンを口に入れる。とろりとしてどこか甘く感じる卵と、酸味の効いたデミグラスソースが絶妙だ。逸品と言われるのも頷ける。しかし、それよりも気になることが、これは、いわゆる、間接キ── 「どう? おいしい?」「……ほうでふね」「よかったぁ!」安心したように顔を綻ばせる彼女が言う『友達』の距離感が、おれにはいまいち分からなかった。「ネズくんも気に入ってくれると思ったんだよね」けれど、彼女がおれのことを考えてくれていた時があったというだけで、おれのために何か行動してくれたというだけで、今おれを見ていてくれているというだけで、柄にもなく浮かれてしまう。おれの心境に合わせるように、口に入れられたオムライスのたまごが嬉しそうにとろけた。

 

write:2019/12/09

edit  :2021/08/05

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